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Orland "Perchin" Cepeda

メジャーリーグを目指す野球選手にとって、新人王、MVP、ホームラン王、ワールドシリーズ出場、 殿堂入りなど目標として目指すものはいろいろあるだろう。このオーランド・”ペルチン”・セペーダは それらの偉業すべて成し遂げたプエルトリコの英雄である。

1937年、セペーダはプエルトリコの南部に位置するポンセで生まれた。ウィンターリーグで活躍した父 (セペーダのあだな”ペルチン”は、父ペドロのあだ名”ペルチョ”からきている)の影響もあり幼いころから 野球を始めるが、父が直面していた野球の負の面を目の当たりにしてセペーダ少年はバスケットの方に興味の 的がむかっていた。しかし15歳でひざを怪我し手術。その後彼の興味はバスケットから再び野球に戻ることに なる。

1955年、17歳のときにジャイアンツ(当時はNY)とマイナー契約を結び下部組織のサレムでプレー した。しかし英語がしゃべれないことや人種差別、父の死と本人にとっては前向きになることができない ことが続き成績もパッとしたものではなかった。サレムでの6週間のプレーの後、ココモ(インディアナ) へ移籍。その後ココモでのプレーが本人に水が合ったのか実力をようやく発揮した。打率を.247→.393 と大幅に上げ首位打者を獲得した。翌年は北米リーグのセントクラウドで三冠を獲得。さらに翌年にはジャイ アンツのAAAミネアポリスでプレーし、打率.309、25本、108打点という成績を残した。このように マイナーリーグでは抜群の成績だったセペーダは翌1958年春には晴れてメジャー契約することになる。 それはちょうどジャイアンツがNYからSFに移転する年のことであった。マイナーリーグでは三塁を守って いたセペーダだったが、当時の監督ビル・リネイは彼に一塁を用意し、この日から一塁が彼の指定席となる こととなった。迎えたドジャースとのデビュー戦の初打席でセペーダは本塁打を打つ。これはサレムでの マイナーリーグ初打席、サントゥルZでのプエルトリコのウィンターリーグ初打席についで自身三度目となる 初打席初本塁打だった。こういうところからも彼の勝負強さをうかがうことができる。メジャー一年目の成績 は打率.312、25本、96打点の成績を残し、選考委員の満場一致で新人王に選ばれた。ファンは彼を ”ベイビー・ブル”と名づけ、同僚の投手のアントネリーは”チャチャ”と名づけた。それは彼がいつも ダッグアウトでチャチャチャの踊りをチームメイトに教えていたからだという。SFでの8シーズンは コンスタントによい成績を残しチームに大きく貢献した。しかし、1966年のシーズン途中にカージナルス への移籍を余儀なくされた。それは前年、本塁でのクロスプレーの際古傷の右ひざをいためて手術し、 シーズンの大半を棒にふらなければならなかったことが原因だった。移籍先のカージナルスでは地区優勝に 導く活躍を見せ、1967年には初のMVPを獲得した。しかし彼のひざは再び限界に達しており3度目の 手術を行わざるをえなかった。再びトレードでブレーブスに移籍し4年間プレーした後、1972年に4度目 の手術をした。野球界ではセペーダは終わった選手だというように見られていたが、本人はまだできるという 強い意思を捨てておらずオフにはトレーニングを行って再起の望みをつないでいた。

そして翌年、幸運にも彼の救世主が現れた。アメリカンリーグが指名打者制を導入したのである。これにより 彼は現役生活を続けることができた。ボストン・レッドソックスからのオファーを受け、1973年指名打者 として142試合に出場、.298、20本、86打点の成績を残し最優秀指名打者賞を獲得。36歳のとき だった。セペーダは今後の野球生活の居場所をようやく見つけたと思われたが、そのオフに監督が交代。 チーム方針がスピードを重視することなったため解雇された。翌年メキシコリーグでプレー後、シーズン途中 でロイヤルズに移ったもののそれが彼のメジャー現役最後の年となった。また、セペーダの地元プエルトリコ でのウィンターリーグの成績は計13シーズンで生涯打率.323。1960〜61年のシーズンには規定打席 にわずかに足らなかったが、.415を記録した。その間2度のMVPを獲得。同世代のロベルト・クレメンテ とウィンターリーグの牽引車となっていた。引退後しばらく個人的な問題(麻薬容疑で逮捕)により野球から 離れていたが、1999年7月11日にジャイアンツが彼の背番号30を永久欠番にすると発表、さらに 2週間後の25日には野球殿堂入りを果たすこととなった。それはロベルト・クレメンテに続いて プエルトリコ人としては2人目のことであった。