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Roberto Clemente

ロベルト・クレメンテ〜プエルトリコの巨星〜”Roberto Clemente〜Astro Boricua〜”
プエルトリコ人で最も活躍した、最も尊敬される野球選手としてロベルト・クレメンテを疑う人はなかろう。彼は黒人、ラテン人というマイノリティーでありながらメジャーリーグで活躍し、最後は悲劇的な結末を向かえ星となってしまった。2002年は彼が逝去してから30年の記念の年であり、少しロベルト・クレメンテを懐古してみたいと思う。
●ロベルト・クレメンテ
 ピッツバーグ・パイレーツの主砲として18年間活躍したロベルト・クレメンテ。彼の3000本安打という偉業は華やかしくかつ大変苦難に満ちたものだった。1955年4月17日にデビュー、1961年から12年連続でゴールデングラブ賞を獲得、1966年にはレギュラーシーズンのMVPも獲得と一見何の問題も無く野球人生を過ごしていたように見えた。しかし事実は苦難との戦いがあった。マイノリティであることの差別やアメリカ人記者との確執、自身のケガなどが万年悩みの種であったようだ。そして結果的に最終シーズンとなる1972年に苦しみながら3000本安打を達成することになる。
●背番号21
 ロベルト・クレメンテのつけていた背番号21は多くのラテン人野球選手にとって特別のものである。今日多くのラテン人がメジャーリーグで活躍できるのも、彼がその扉を開いたと言っても過言ではない。そしてその功績に尊敬の念を表すため自らの背番号に21をつけるものも多い。例えば同じプエルトリコ人でシアトル・マリナーズのルベン・シエラやさらに有名な所では、シカゴ・カブスのサミー・ソーサがそうである。ソーサはインタビューでロベルト・クレメンテについてこう答えている。「クレメンテを100%尊敬している。彼は苦難を克服したお手本であり、すべての野球選手、特にラテンアメリカ人にとって大スターだ。人は私をロベルト・クレメンテに例えようとするが、私はそれを大変誇りに思う。」このような選手がいる限り、今後もこの背番号21はラテン人の背中に受け継がれていくことだろう。
●3000本安打
 1972年、このシーズンのロベルト・クレメンテは背中のケガに苦しめられ夏のほとんどの試合に出場できなかった。39試合連続でスタメンを外れるという屈辱も味わった。その結果その記念すべき日まで彼には満足できない成績(それでも打率.312を記録している)しか残していなかった。チームはすでにプレーオフ進出を決めており、29日からメッツとの最終3連戦を残すのみであった。そして3000本安打まであと1本を残すのみであった。
●1972年9月29日
 今は無きピッツバーグのスリーリバースタジアムでその偉業は達成された。初戦、メッツの先発はスター投手のトム・スティーバー。第一打席のことであった。クレメンテが打った打球はワンバウンドしてピッチャーの頭上を越える。ショートのケン・ボスウェルも打球をグローブに収めることが出来ない。クレメンテはファーストベースへ。2万4千人の観衆は掲示板に視線を集め記録が表示されるのを固唾を呑んで見る。ヒットを表す”H”の文字が表示される。観客席は沸き、審判はその記念すべきボールを取ってそっとコーチに渡す。しかし事件は起こった。掲示板の表示が”E”に変わったのだ。それは公式審判員が今のプレイは”エラー”であった事を認めたことを意味した。クレメンテはその後の三打席を凡退した。クレメンテは試合後、彼を取りまく記者に向かってあからさまに不満を口にした。「一体何本打てって言うんだよ!」実際クレメンテは1969年にこういうことを経験していた。その年はピート・ローズと首位打者を争っていた。そして最終的には3厘差で負けるわけだが、シーズン中に1本ヒットを取り消されたのである。それもそのヒットが出た3週間後に公式記録がエラーに変更された。これは明らかにラテン人への”いじめ”であった。しかしクレメンテは試合後のロッカールームで親しい記者に向かって、こう言っていたのも事実だった。「こんな当たりでは納得しないよ。」
●1972年9月30日
 観客は昨日よりも少なく1万3千人しかいなかった。今日の相手ピッチャーは後に125勝を挙げエースとなるジョン・マトラックだった。マトラックは偶然にも前年プエルトリコのウィンターリーグに参戦していたが、この年はクレメンテは参加しておらずここが初めての対戦だった。1回、さっそくクレメンテに打順がまわった。しかし結果はあっけなく終わった。アウトコースの球にあえなく三振。そして4回の2打席目、いよいよその時が来た。打席に入る前、クレメンテはチームメイトのウィリー・スターゲルからバットを渡された。それはクレメンテがいつも使っている35オンス(約992g)の比較的重いバットよりさらに重いバットだった。そして打席に向かった。初球はひざ元のストレート。1ストライク。打席を外して間合いをとった。そして2球目。クレメンテは1打席目で三振をとられたアウトコースの球を待っていた。そしてそれが来た。快音を残して左中間深くフェンスまで届いた。「やった!やった!3000本ヒット!クリーンヒットです!」この日がくるのを待ち続けていたプエルトリコのラジオのアナウンサーはこう絶叫した。クレメンテはセカンドベース上で帽子を取って観客に挨拶した。そして4回が終わるとベンチに退いた。これが彼のレギュラーシ−ズン最後の試合となった。試合後、記者に向かって「ようやく終わってホッとしているよ。」と本音を漏らした。
●家族
 「何日も前から緊張していたわ。それに毎日のようにファンから達成を心配する電話があって眠れなかったの。」ベラ夫人(現ロベルト・クレメンテ・スポーツシティの役員)は当時の思い出をこう語った。息子のルイスは当時小学生で、学校の構内放送がありみんなが祝福してくれたことを懐かしがった。「達成への道はラテン人や黒人であることの人種差別に対抗する苦難の連続だった。いつも我々は難しい状況におかれていた。」こう言ってクレメンテはいつも弱者を守ろうとしていた。またクレメンテがエラーをしたときに白人の新聞記者に過剰に責めたてられた時でも前向きに考えるようにして争いをさけた。それからクレメンテは1950年代に交通事故に遭い、その影響で慢性的に背中を痛めていた。そしてその症状を和らげるためカイロプラクティック治療をしており、また夫人もその先生に方法を習いクレメンテに施した。「誰にも言っていなかったみたいだが、どうやら本人はその年(1972年)で引退を決めていたみたい。ケガによって満足な成績が残せなかったことが自分に対し、又ファンに対し許せなかったようだったわ。」ベラは話した。