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Mako Oliveras

マコ・オリベラス 〜プエルトリコの20世紀の名将〜

MLBでは今日まで10人のラテンアメリカ人が采配を振るってきたが、この数字は選手として在籍・活躍しているラテンアメリカ人の数と比べるとそう多くは無い。そして今年2004年MLBにはシーズン過去最多の4人のラテンアメリカ出身の監督が存在している。 アルー(ドミニカ共和国)、ペーニャ(ドミニカ共和国)、ギーエン(ベネズエラ)、トスカ(キューバ)である。

しかしながら、今日まで数多くのメジャーリーガーを輩出してきたプエルトリコは意外なことにまだメジャーの監督は出していない。将来的にはおそらく誰かは監督の座につくであろうし、その最有力候補としてホセ・チェオ・クルス、サントス・アロマーなどが挙げられている。しかし、もし私がチームのオーナーであるなら、この人をメジャーリーグで最初のプエルトリコ人監督に採用したい。マックス・マコ・オリベラス(Max"Mako"Oliveras )。みんなからは「マコ」と呼ばれ親しまれている。今回はメジャーの選手としてはもちろんスタッフとしてもほとんど知られていないプエルトリコ人、マコ・オリベラスについて紹介したい。

彼は1946年9月16日、プエルトリコ・サンファンの下町サントゥルセで生まれた。名づけられた名前はマックスであったが子どもの頃からマコと呼ばれるようになり、いつの間にかそっちが名前のようになってしまった。野球を始めたのは小学校のころで、1959年には少年野球の世界大会に出場した経験も持っている。スポーツだけでなく勉強も優秀だったらしくベーブルース・リーグでプレーしながら高校を卒業後、地元のアマチュアリーグでプレーした。その後、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結び5年間マイナーで内野手としてプレーした。しかしながら、それほど優れた能力を持っているわけでも無かったため輝かしい成績を残せなかった。ボストンとの契約終了後はパイレーツのAとAAで3年間をさまよったがやはりメジャーに上がることはなかった。後にこの頃のことをマコ・オリベラスはこう回想している。
「自分が人より抜きん出ている技術が無いのは分かっていた。でも他の人より器用だったからね。だからいつもどうやったらそれを活かすことができるのか、能力の無さをどうやったら器用さでカバーできるのかを考えていた。それにいろんな角度から試合を見て試合の勝負を決める要素はどういうところにあるのかを考えることに興味がわくようになったんだ。」
こういう発言からみてもそのころから試合全体を見る能力や、長所を活かす方法など指導者としての才能を築きはじめたと言ってよいであろう。

また、冬は地元に帰ってウィンターリーグに参加していたが、ここでもやはりマイナーリーグでの状況と同様に栄光をつかむことはできなかった。サンファン・セネターズに3年いたが、最も成績を残した年で打率が.321であった。その後もマヤゲス・インディアンスに1年、バヤモン・カウボーイズ、アレシボ・ウルフズと渡り歩いたがやはりレギュラーとして定位置を取ることはできなかった。

そして1978〜79年のシーズン前、バヤモンからコーチとしてのオファーが来た。郊外のアレシボから首都圏のチームに戻れるという理由で彼はそれを承諾した。しかし、この決断は彼自身が選手から指導者の側に入るということを意味し、決心するにはそれなりの覚悟があったようだ。並行して夏季はメキシコに渡りメキシコのリーグで指揮を取ることになった。そこでは18試合連続勝利も記録するなど非常に良い結果を残した。それを見たサンファンのオーナーが1984〜85年のシーズン途中に彼を監督として迎え入れた。そしてその年に見事プレーオフで優勝、初のカリビアンシリーズに出場することになった。

その後も'90年にサンファン、'91年、'93年、2000年にサントゥルセでウィンターリーグに優勝し、通算5度のリーグ優勝、さらに'93年、'00年にはカリビアンシリーズも優勝した。ちなみに他にカリビアンシリーズで二度優勝しているのはナポレオン・レジェス('57、'58)、ベンジャミン・レジェス('76、'86)、フランシスコ・エストラーダ('96、'02)、フェリックス・フェルミン('01、'03)の四人が達成しているのみである。このように監督業になって成績を残すことで初めて彼の才能が認められ、カリブ海では名実共に備えた監督としての地位を確保した。そしてプエルトリコでは20世紀の名将という称号を得るところとなった。

また彼を求める声はプエルトリコだけにとどまらず、2003年にはプエルトリコで自身の采配するチームがプレーオフの出場権を逃すとドミニカリーグのエスコヒード・ライオンズから優勝請負人としてプレーオフシリーズのみの監督要請が来た。そのときは優勝できなかったがチームのラファエル・ファーカルやデビッド・オルティスはマコ・オリベラスが監督に来ることをとても喜んだという。

ウィンターリーグで監督としての実績を積むにつれ、アメリカ本国での活動も盛んになっていった。1987年にカリフォルニア・エンゼルスの下部組織に入ったのをきっかけに、AやAAAの監督・コーチとして8年間勤めた。'90年にはAAAのエドモントンでパシフィック・コースト・リーグのディビジョン優勝も果たしている。そして'94年にはカリフォルニア・エンゼルスのコーチとして初めてメジャーのベンチに入ることとなった。1年後の'95年からはカブスのコーチを3年間努めた。そして2004年現在、この4年間が彼のメジャーでの唯一の経験である。

カブスとの契約終了後、クリーブランドのマイナー(A)から監督の要請があったが、彼はそれを断った。
「飛行機での移動に慣れてしまうと、あのマイナーのバスでの移動は耐えられないと思ったんだよ。」
後にこのように彼は語っているが、これはかなり正直な本音と言えるだろう。

一度プエルトリコのアマチュアチームで監督をした後、再びアメリカ本国の地を踏むことになった。タンパベイ・デビルレイズのマイナーでバッティング・コーチとして就任した。
「どうやってバッティングを教えてるんだと言われたことがある。なぜなら私は優れたバッターではなかったから。しかし、よく考えてみてくれ。バッティングが上手くなりたい人に教えるのがコーチの仕事だ。そう、それはまさに私が選手としてマイナー時代に逆の立場で経験していたことなんだ。若い選手を見ていると一緒に考えようという気がわいてくるんだよ。友達のようにね。」
バッティング・コーチ時代の1999年にはチーム打率.295を記録した。そして2003年には自身の監督としてのマイナーでの勝利数700勝も記録した。

名将、名選手にあらずとは正に彼のためにある言葉といってもよいかもしれない。ウィンターリーグでは良くも悪くもプライドの高いメジャー選手を操ってリーグ制覇を目指し、レギュラーシーズンは自らの経験を元にマイナーリーグ(現在はデビルレイズのA、ベーカーズ・ブレイズに所属)で若手を相手にフレンドリーに指導をする。このようなことができる人材は実は貴重なのかもしれない。メジャーの監督になる日はそう遠くないと私は思う。

(この記事は、メールマガジン・サークルチェンジに記載されたものです。)