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Jose "Tony" Valentin

バレンティンにとって野球は唯一無二なものだ。人生の一部と言ってよい。1年間でこなす試合の数はスプリングキャンプからレギュラーシーズン、ウィンターリーグまであわせて200試合をゆうに超える。5歳で野球を始めてから今まで野球場に行くのを止めたことはない。彼の記憶はすべて野球のことだけだ。アマチュア時代の最初のヒットから夢がかなった2000年のホワイトソックスのプレーオフ進出まで。そして彼は24時間いつでも野球選手である。それは彼の家庭から来ていると言ってもよかろう。父はプエルトリコのナショナルチームをキャッチャーとしてそして監督として長年にわたって率いた。父、母、そして弟(ハビエル・バレンティン)もすべて野球に人生を捧げてきた。特にトニーの父は代表チームに異常なまでの情熱を注いできた。

バレンティンは子供の頃を懐かしんで言う。
5歳の時の最初のヒットは今でも覚えているよ。棒っきれのようなバットで粘土のボールを打ったんだ。セントラル・シュー・ストアーって名前のチームでさ、私のおじさんが監督をしていてユニフォームもないチームだったよ。」

子供の頃は内野手からキャッチャー時にはピッチャーまでした。守備もそうだがバッティングが素晴らしくみんなの目を見晴らせていた。16歳の時には父が率いる(プエルトリコのアマチュアの)AAのチームに所属し、その頃にはいくつかのメジャーのチームが彼と契約をしようと彼を訪れていた。そしてその後サンディエゴ・パドレスと契約することに迷いは全く無かった。
「ちょうどその時パドレスに最も多くのプエルトリコ人が所属していたんだよ。アロマ−兄弟、カルロス・バエルガ、ジョエイ・コラ(LAアレックス・コラの兄)、ベニート・サンティアゴ、そうそうサントス・アロマ−がコーチをしていたね。」

18歳の誕生日に$22,000で契約した。1年目は、打率.250、HR2本、打点24だった。しかしそこでチームは優勝し初めてのチャンピオンリング獲得となった。しかし4年後にゲイリー・シェフィールドとの交換でリッキー・ボンスと一緒にミルウォーキー・ブリューワーズへ行くことになる。そしてその1年後晴れてメジャーデビューを果たした。

プエルトリコのウィンターリーグはこの頃から始まることになる。最初所属したチームはサントゥルセだった。
「そこでは、いい先輩に恵まれたね。フアン・ホセ・ベニケスとイバン・デ・ヘススが面倒をよく見てくれて、私にはいい刺激になった。私の野球人生でも非常に充実した時期だったと言えるだろう。この時期はメジャーの選手がウィンターリーグにはほとんど参加していたものだったよ。彼らが私の本当によいお手本だった。」

しかしその頃、ブリューワーズはバレンティンにウィンターリーグでプレーしないことを条件とする契約を提示し、彼はそれを承諾した。しかし翌年同じオファーを拒否することになる。
「とにかくお金じゃないんだ。ブリューワーズは私にオフにプレーしないことを要求してきたが、彼らはそこでプレーすることで技術が向上するってことを知らなかったんだ。ここではいつも何か学ぶことができ、自分のためになるんだ。」
これがトニー・バレンティンの本音だ。

今、毎年のようにオフの貴重な時間をウィンターリーグに参加することに関しバレンティンはこうも説明する。
「私は時間を無駄に過ごすことをしたくない。更に言うと、ここにはお金を稼ぎに来るのではない。チームを優勝させるためになんとか力になりたいだけなんだ。なかなかみんなそこをわかってくれなかったり、誤解されたりするんだけどね。でもマヤゲス・インディアンス(今所属しているチーム)のファンはそこをよくわかってくれていると思う。」
彼は野球選手としてだけでなく人間的にも素晴らしいものを持っている。このあたりの精神はプエルトリコの英雄ロベルト・クレメンテに通じることがあると言えるだろう。

インディアンスでは、”ミスター・プエルトリコ”と呼ばれている。プエルトリコで過去こう呼ばれたのは70年代に同じ称号をつけられたホセ・クルス(SFのホセ・クルスの父)である。そう、ウィンターリーグの優勝を決めるプレーオフでいつも活躍していたクルスである。しかしバレンティンはそういう”称号”を付けられることをあまり好まない。しかしある人はバレンティンについてこう評価する。
「もし自分が野球チームのオーナーで、自分のチームを優勝させたいと思ったら誰が欲しいかって?そういう疑問が出たときに真っ先に思いつくのがトニー・バレンティンだよ。」

いま彼にとって気になることは子供の成長がすごく早いってことだ。10歳のヘスムエルと6歳のジョマールの2人の子供もすでに少年野球チームのスター選手だ。
「むずかしい年頃でね、メジャーリーグがオフの時期に野球選手としてチームを取るか親として家族を取るか。私は野球がしたくないとは決して言わないがよく考えたいんだ。今子供と一緒にいてあげることは将来彼らが大人になった時に必ずいい影響を及ぼすだろうからね。」

将来、野球を引退した後はバレンティンは少し休むつもりだそうだ。野球に戻ってくるために。

「地元のマナティに野球施設を作りたいんだ。(カルロス)ベルトランも出身のマナティの野球は最高レベルだ。そこに早く私がウィンターリーグのフランチャイズになるような環境を作りたい。それが私の夢だよ。」(*)

こんなエピソードを紹介しよう。昨年プエルトリコで行われたカリビアンシリーズの決勝のことだった。プエルトリコ対ドミニカの試合の途中、審判の判定を不服としたファンが物をグランドに投げ込み、その後大勢の人がグランドになだれ込んだ。試合続行不可能かと思われたその時、両チームのキャプテンであるバレンティンとドミニカのテハーダが本塁上で観客に訴えた。「俺たちは試合をしたいんだ。みんな落ち着いてくれ!」この両選手が訴えた効果は絶大だった。これほどまでにファンに直接訴えることのできる選手は今のところプエルトリコにはバレンティンをおいて他にはいない。

今シーズン、バレンティンの所属チームであるインディアンスが序盤不調だった。監督も解任され昨年のチャンピオンチームの威厳はなかった。そこでバレンティンは立ち上がった。当初12月から参加する予定だったのをチームのためとみるや急遽11月19日に参戦、カンフル剤となるようチームに刺激を与えた。チームメイトも彼の参戦を心待ちにしていたようだ。オーランド・ゴメス監督代理はこう言う。
「彼がラインナップに入ることは単にスラッガーが一人増えるというだけじゃないんだ。チームに失われていた核ができるという事なんだ。野球を語る上でなくてはならない存在なんだ。」

(この記事は、メールマガジン・サークルチェンジに記載されたものです。)

(*)2004年冬のウィンターリーグから地元チーム(マナティ・アテナズ)のオーナーとなる。